私たち日本バプテスト教会連合の信仰と遺産は、どのような歴史の中でつくられてきたのでしょうか。その源流を簡単に振り返ってみましょう。

 

(1)パブテストの誕生

バプテスト教会は、英国における宗教改革の運動の中から生まれました。英国における宗教改革は政治的理由によって始まったために、教会内において改革運動が起こり、それがいわゆるピューリタンの運動として大きく発展します。そのピューリタンは三つのグループに分けて考えることができますが、第一は国教会ピューリタン、第二は長老派ピューリタン、第三は会衆派ピューリタンです。この会衆派ピューリタンは、礼典だけの改革に満足せず、会衆政治によって教会を改革しようとしました。

この会衆派がヘンリー・ジャコブの指導の下に独立教会となりました。これらピューリタンはあくまで同教会内部にとどまって改革しようとしましたが、国教会から離れて教会をつくろうとする運動も起こってきました。それがいわゆる分離派と呼ばれるもので、1570年リチャード・フィツによって結成され、ロバート・ブラウンによって大きく発展させられました。彼は迫害のためにオランダに逃れますが、そこで論文を書き三つの原則を明らかにしました。それらは、(1)信徒は自由意志に基づく契約によって教会の会員となる。(2)教会役員は会員によって選ばれる。(3)どの集会も、他の集会の上に権威を振るってはならない、でした。

このブラウンの思想は、パウロたちによってつくられたロンドンの会衆派の集会に受け継がれました。他の分離派の集会が1606年ゲインズボローとスクルービーに生まれ、スクルービーの集会はロビンソンに指導されていました。しかし、迫害のために、1609年オランダに逃れ、やがてメイ・フラワー号でアメリカ新大陸に渡った者もいます。ゲインズボローのグループも迫害のために、ジョン・スミスの指導の下にアムステルダムに移っています。

このジョン・スミスは、神学教育と霊的訓練を、英国の改革派的カルヴアン主義の伝統の下で受けています。彼は、教会員となるのは自覚的に回心した者に限るべきことを確信し、いわゆる契約神学を退け、そのためにゲインズボローのグループとは別の集会をつくりました。そこでまずスミス自身が自分で潅(かん)水によるバプテスマを受け、次にヘルウィスにそして他の会員に授けました。ヘルウィスたちは1612年ごろ英国に帰り、最初のパブテスト教会を組織しました。教義的にはアルミニウス派の考えに従いました。彼らは無制限贖(しょく)罪説を採っていたので、一般パブテストと呼ばれるようになりました。

この一般パブテストに対し、特別パブテストと呼ばれるグループが生まれました。それは1633年ヘンリー・ジャコブの集会の分裂によって生まれたもので、彼らは信じて救われた者に対する浸礼によるバプテスマ、限定購罪を強調するカルヴァン主義の立場に立っていました。1638年、ジョン・スピルスバウリイの指導の下に正式に教会として発足しました。1644年には七つの教会となり、その年五十箇条の信仰告白を作成し、パブテスト教会の礎を置きました。
 

(2)BGCの誕生

アメリカにおけるバプテストは、主としてこの特別バプテストの流れをくんでいます。ロージャー・ウイリアムズは始め英国国教会の聖職者となる教育を受けていましたが、間もなくバプテストの信仰を持つようになりました。1631年、彼は迫害を避けてアメリカ新大陸に渡り、ニュー・イングランドからさらにプリマスに赴き、サレムの教会の牧師となります。そこでも迫害に会い、ロードアイランドに逃れ、1639年アメリカ最初のパブテスト教会を設立しました。やがてアメリカ全土に広がり、政教分離、信仰の自由、個人の尊重といった信仰も広く受け入れられるようになりました。1740年には三千人程度でしたが、今日では二千万人を超えるアメリカ随一の教派となっています。

1835年、ニールソンという一人のスエーデン人の船員が、赦しい台風に苦しめられながらニューヨークに着きました。死と神の裁きについて深く考えさせられた彼は、上陸するとただちに教会を訪ね、そこで福音を聞き回心しました。回心後、彼は熱心に伝道を始め、特にスエーデンからの移民に伝道しました。バージル・オルソン師によれば、彼は当時メソジストだったようですが、多方面からの影響を受け幼児洗礼に疑問を抱くようになりました。彼はドイツのハンブルグで1847年、「欧州大陸におけるバプテストの父」と呼ばれるG・オンケンからバプテスマを受け、パブテストになりました。その後スエーデンに帰ってホーランドでスエーデン最初のバプテスト教会を設立し、その教会の牧師となりました。

1830年、イギリス人でメソジストの説教者であったジョージ・スコットがスエーデンの首都ストックホルムにやってくるや、彼の活躍でイギリス敬虔主義がスエーデンに急速に広まりました。しかしその一因に、十八世紀にドイツの敬虔主義の影響を受けた「残りの者」たちの地下水脈との合流があったことを忘れてはなりません。ニールソンは、このスコットから直接に敬虔主義の影響を受けたのです。若きアンダース・ヴィバーグも1825年にニールソンからバプテスマを受けてスエーデンのバプテスト教会創立に協力しましたが、彼もスコットの後継者ロザニアスと親しい友人関係にあって、敬虔主義の影響を受けていたと思われます。

1840年から50年にかけて、スエーデン北部で敬虔主義が強力に展開されると、同時に猛烈な迫害が起こり、1851年多くのクリスチャンがスエーデンを後にしました。そのなかで指導的な役割を果たしたのが、教師また歌手でもあったグスタフ・パームクィストです。彼は初めパブテストではありませんでしたが、ニールソンなどを通してパブテストの信仰についての知識をある程度持っていたようです。彼は1852年春イリノイ州のガレスブルクに行き、ひとつのパブテスト教会を見つけました。そこで、深くパブテストの信仰について理解するようになった彼は、1852年6月にバプテスマを受けてパブテストになりました。それから、同州のロックアイランドで腰を落ち着けての伝道に励むなかで数人が回心して信仰を告白し、その中の三人が1852年8月13日にミシシッピー川でパブテスマを受け、教会を組織するに至りました。これがアメリカでの最初のスエーデン系パブテスト教会です。

同じ頃、ニールソンも迫害を避けてデンマークに渡り、1853年再びアメリカに移りました。彼らのある者たちはロックアイランドにとどまりましたが、他の者たちはミネソタまで進み、そこにパブテスト教会をつくりました。このようにして、スエーデン系の移民を中心にあちこちに教会がつくられ、グスタフ・バームクイスト、アンダース・ヴィバーグ、アレクンス・エドグレン等の優れた指導者の下に順調に成長してゆきました。そして1879年スィディッシユ・パブテスト・ゼネラル・カンファレンスが組織されるに至りました。それが1954五年にパブテスト・ゼネラル・カンファランス(BGC)と改名されて今日に至り、セントポールにベテル大学とベテル神学校を擁しています。

このようにBGCは、信仰的には敬虔主義的なバプテスト信仰の特質を主流とし、神学的には穏健なカルヴァン主義に立つ者が多いのですが、アルミニウスの信仰の流れをくむ者も少なくありません。現在は十数万の信徒を擁しつつ、最近はスエーデン系の人々だけではなく、ドイツ系、スペイン系、中南米系の人々の間にも広がっています。また排他的ではなく、聖書信仰に立ちながら他との協力を大切にしています。