私たちは、教会及びキリスト者が、信仰にかかわるあらゆる事柄において、ただ神にのみ責任を負う者であることを信じます。このゆえに、私たちは互いに平等であり、政治的、宗教的などのような権力からも、独立と自治を犯されない自由を持っています。

この告白は、バプテストの信仰の優れた特色を示しており、信仰の独立と自由と平等をダイナミックに表現している。キリスト者の独立と自由と平等とは、人間の思想や主張から生まれたものではなく、神に対する信仰と交わりの結果与えられたものである。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」(使徒4:20)と宣言したペテロの言葉が雄弁に物語っているように、生ける真実の神の前で正しいかどうかがすべての判断の究極的な基準である。また、私たちは、日常生活のすべての人間関係における出来事において、何よりもまず神に責任を負う。そのゆえに、私たちは人間的な思いと奴隷的な関係から解放され、独立した自由な存在として生きる。

この生き方は、人ではなく神に責任を負うものであるゆえに自由であり、神によって人に仕える者であるゆえに誠実である。自己主張から生まれた独善に陥ることなく、それぞれは神によって生かされている者であるという自覚のゆえに人格的に尊重し合う(マタイ5:45、19:13、14、ローマ14:1?23)。私たちは、この基本的な精神に立って、互いに独立と自由と平等の関係を結び合っていく。

 

1. 神に責任を負う者

使徒たちが語っているように、キリスト者はまず神との関係に生きる者であり、何よりも神に責任を負う者である。キリスト教は、その誕生の時から政治的、宗教的勢力による厳しい圧迫を受け、長い歴史の中で多くの迫害を経験してきた。また、キリスト教が世界的宗教となるにつれ、教会内においても信仰の独立と自由とが侵害されることも少なくなかった。宗教改革者たちは、ローマ・カトリックからの独立と自由を求めて、苦しい戦いを続けなければならなかった。バプテストの先輩たちは、完全な信仰の独立と自由を求めて立ち上がり、厳しい戦いを繰り広げた。どのような政治的、宗教的な権力にも属しないで、神とキリストに対する誠実な信仰に生きようとした。その厳しい戦いによって、今日の世界における信教の自由が確立するようになった。しかし、それは基本的には、神に誠実に生きる信仰の結実である。その意味において、〈私たちは、教会及びキリスト者が、信仰にかかわるあらゆる事柄において、ただ神にのみ責任を負う者であることを信じます〉と告白するのである。私たちは、この告白の精神を、国家との関係において、教会政治において、日常の人間関係において、生かしてゆくのである。

 

2. 私たちは平等である

神はすべての人間を等しく神のかたちにつくられ、すべての人は神にとってかけがえのない者である。人間の社会においては、多くの差別がある。人種的に、社会的におびただしい差別があり、また男女の差別がある。秩序は必要であるが、差別は排除しなければならない。キリスト教は、その長い歴史の中で人間的な差別を排除するために戦い、多くの成果を得てきた。今日もその努力を怠ってはならない。

一般の社会だけではなく、教会の中においても真実の平等が確立するように、努力を続けなければならない。すべてのキリスト者は大祭司であるキリストを通して等しく神と交わることができる。従って聖職者と俗人という区別は本質的にはあり得ない。このゆえに、教会員は平等の権利義務を持ち、教会政治は会衆制であり、それぞれの教会は独立政治であるのである。とはいえそれは無秩序であったり、孤立することではない。教会は本質的にキリストにある霊的共同体であり、個人主義とは異なる。また、それぞれの教会は福音宣教の健全な成長のために協力するのであり、そのために私たちは教会の連合を結成し、互いに協力し合うのである。

 

3. 私たちは自由である

繰り返し言及したように、教会とキリスト者は政治的権力や宗教的勢力によって、信仰の独立と自由を犯され、教会の自治が脅かされてきた。そのゆえに、私たちは、〈政治的、宗教的などのような権力からも、独立と自治を犯されない自由を持っています〉と声を強めて告白し宣言するのである。

キリスト者にとって、信仰の自由は最も大切なものである。自由のない信仰は、死である。その信仰の自由が、あらゆる領域において守られるように努力しなければならない。現実の世界における多くの政治的権力は、信仰の自由を抑圧したり、教会を政治的目的のために利用しようとする。今日の日本においても、靖国神社法案に見られるように、実質的に信仰の自由を奪う危険が少なくない。目を覚まして、そのような動きを鋭く見守ってゆかなければならない。

信仰の自由を脅かしているのは、ただ政治的権力だけではなく、宗教的勢力でもある。特に、カトリックやイスラムの世界においては、他宗教や信仰に生きる者たちの自由を認めない傾向が強い。日本でも仏教的習慣や神道的行事のゆえに、キリスト者の信仰の自由はしばしば脅かされている。私たちは、神に誠実に生きる者となるために、これらの政治的権力や宗教的勢力から、信仰の自由をしっかりと守らなければならない。